この本は長いけど、たぶん対象年齢、中学生・高校生あたりなんじゃないかと思います。主役はみのりちゃんというまっすぐで、絶交とケンカばかりして、家庭でも学校でも問題児の女の子と、サッカーが大好きだけど補欠でキーパーの悟君です。2人の小学生から高校生までを、一章ずつ交互に、それぞれの一人称で追っていく形式ですが、メインは2人の高校時代です。テーマは自分探し、自分の居場所探し。モチーフは、機能不全の家庭と、絵画。みのりちゃんは家族を憎んでいて、叔父さんだけが好きで、その叔父さんがイラストレーター。悟君の両親は離婚していて、離れて暮らす事になった父親が飲んだくれの絵描き。
とても純粋というかピュアというか、どまん中で青春しちゃっているラブストーリーです。そういう小説だから、双方の一人称という形式は、なんだかとても切実で、痛々しく、さすが佐藤多佳子さん、うまい!と、思いました。2人の将来とか、家族の問題とか、恋愛の行方とかに関しては、ネタばれしないことにします。一応オススメ本なのでね。
さて。基本的にラブストーリーは不得手なわたしが、この本のどこに惹かれたのかというと、わたしには、みのりちゃんの気持ちがすごいよくわかるんだよね。みのりちゃんは絵が好きなんだけど、いかんせん才能がなくて、絵はぜんぜん描けないんだよ。叔父さん以外に好きな人がいないように、絵以外に好きなものもなくて。絵が好きで好きで、絵から離れられないんだけど、描けないものは描けないんだよね。だから、何もしないで固まっているだけで、自分でそれをわかってるの。だから、描けるのに描かない人には、腹が立つの。
「わたしは絵が描けない。センスも能力もない。小学校のときから分かっていたけど、でも、美術の授業を迷わずに取ってしまうのは、絵の周辺にいたいからなんだ。私よりずっとうまい人が描く色々な絵」
「描くのやめんなよ。あれでいいんだよ。私は好きだよ。いっぱい描けよ」
この辺りのセリフを読んだとき、そうだ、そうだ、とふかーく共感した次第です。わたしの場合、親の教育方針で、幼稚園にも保育園にも行ってなかったから、図工っていうものに最初から慣れてなくて。小学校では当然、クラスでも目立つくらい絵は下手でした。それは6年間努力してもどうにもならず、だから、私は小学生の段階で、自分が絵が描けない人だということはわかってたんです。
でも、高校3年間美術部にいてしまったし(マン研にもいたようなもんで)、大学ではサークルの活動で絵本を描いたりしてたんだよね。やればやるほど、自分が下手だって事はわかったんだけど、そんなコンプレックスを吹き飛ばすくらい、絵の周辺にいたいという気持ちがあったんだと思います。今でも、絵を見るのはすごい好きで、もちろん美術館に行ったり、画集を見たりもするけど、それだけじゃ物足りないの。好きな絵を見つければ描いた人のことを知りたくなって、伝記を読んだりしてしまうし、絵を描く人とは友達になりたくなってしまう。音楽仲間の中でも、文学サークルでも、ボランティア集団でも、気がつけばなんとなく、絵を描く人に寄って行ってしまう。
最近仲良くなった友達(というより、友達の旦那さん、ですね)が、美大の油絵科を出ている人で、ちょっと頼むと、ささっと何かデッサンしてくれたり、お見舞いに模写をポンってくれたりするの。彼は本当は「現代美術」っぽい「空間アート」みたいなもの、私から見ると「わけがわかりません。ごめんなさい」っていうようなものが好きで、やりたいらしいのですが、やっぱりその基本として身につけた絵の技術は、私からみると、すごい。ただのコップを普通に鉛筆で描かせてもね、あっという間に質感とか、透明感とか、光が屈折している感じとかがそのまま紙に出てきちゃうんだよ。描いてるの見てるとすごい楽しい。嬉しい。大学卒業して以来、誰かが絵を描くところを見ている、というチャンスが全然なかったから、この感じは久しぶりですごくワクワクする。普通の生活してたら、そういうチャンスってなかなかないもんね。思えば、学生時代の私は、幸せだったなあ。だって、行けば誰かが絵を描いている、っていう場所を、常に確保していたんだもの。無意識だったけどね。
じゃあ、また絵を習いに行けばいい、駅前のカルチャースクールで絵画講座があるぞ、などと思わないわけじゃないんだけどね。でも、結局、わたしは楽器を弾く人だからなあ。そっちに割くエネルギーがあるなら、やっぱりもっと、音楽をやりたいんだよね。身体が2つあればなあ。「好きなのかどうかわからないけどできること」と「できないけどすごく好きな事」、両方できるんだけど。(2004.10.21)