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● 第三の嘘 アゴタ・クリストフ
第三の嘘第三の嘘
アゴタ クリストフ Agota Kristof 堀 茂樹

早川書房 1992-06

『悪童日記』『ふたりの証拠』『第三の嘘』のネタバレがあります。

ふたごの少年が戦時中の自分たちの生活を書き残した「大きな帳面」の内容が、シリーズ第1作目の『悪童日記』でした。第2作目の『ふたりの証拠』では、国境を越えなかったほうの少年、リュカが主人公になり、クラウスの存在は周囲の人たちの証言によって否定されます。それだけでなく、書き残された文章は、すべてリュカ(あるいはクラウス)による創作なのではないか、と、におわされて終っています。

そしてこの『第三の嘘』です。時は冷戦終結後。ふたごは50代になっています。ふたごのどちらもが語り手となって「わたし」という一人称で話す上に、過去を回想したり、くりかえし夢を見たりと、ややこしい。ちょっと混乱させられますが、それがこの作品に、どこか幻想的な雰囲気を作り出しています。同じシリーズなのに、『悪童日記』とも『ふたりの証拠』とも違う演出をされた本です。

第1部は『ふたりの証拠』の続きから始まり、語り手は病気になって亡命先から帰ってきたクラウスです。しかしこのクラウスが回想する少年時代は、『悪童日記』とはまったく違います。彼は、ふたごの兄弟がいたという記憶はあるものの、1人病院で育ち、その後「おばあちゃん」と暮らし、「大きな帳面」を書き、亡命しました。そして彼は、それ以降クラウスを名乗りましたが、もともとは、本当の名前はリュカだったのです。

第2部の語り手は、国境の近くの小さな町に残ったほうのふたご、クラウスです。彼は自分の家族が離れ離れになったいきさつを知っており、母親と共にリュカを待って、リュカのいない人生を生きて、詩人になりました。しかし、やっとリュカが会いに来たとき、クラウスはリュカを拒絶するのです。哀しすぎる結末です。

どの部分を誰が書いたのか。どこからどこまでが虚構の世界で、どこからどこまでが現実なのか。本当は誰がどの人生を生きたのか、あるいは生きなかったのか。シリーズ最終巻のタイトルが『第三の嘘』なのですから、すべては確定することがないままです。でもまあ私個人としては、素直に『第三の嘘』を完結編であり謎解き編であるとみなすことにしました。だって、どこまでが本当でどこまでが嘘か、なんて言い出したら、小説なんだから全部嘘に決まってます。それに、シリーズを完結させる本として、『第三の嘘』はすごく面白かった。『悪童日記』も『ふたりの証拠』も、続編を想定して書いたわけではないそうで、あの2作をきちんと連結し、シリーズ全体に整合性を持たせたんですから、『第三の嘘』はすばらしい完結編だと思います。あとづけでこれだけの構成を作れるっていうのは、すごい思考力ですよね。力技!

もちろんつじつまが合っているというだけで喜んでいるのではありません。『悪童日記』は、やはり三部作の中で飛びぬけて魅力的で衝撃的な作品でしたが、三部作の一部になって、魅力が倍増している気がする。1度目は大人のための寓話として、三部作を読んだ後はその一部として、違う種類の感動が味わえる。『悪童日記』が2度おいしいって感じです。

ふたごの悲劇は『悪童日記』以来読者が信じていたように、戦争で始まったものではありませんでした。それは戦争に比べればずっと小さくて平凡な、1つの家族の崩壊という事件から始まったのです。リュカは言います。
私は彼女に、自分が書こうとしているのはほんとうにあった話だ、しかしそんな話はあるところまで進むと、事実であるだけに耐えがたくなってしまう、そこで自分は話に変更を加えざるを得ないのだ、と答える。私は彼女に、私は自分の身の上話を書こうとしているのだが、私にはそれができない。それをするだけの気丈さがない、その話はあまりにも深く私自身を傷つけるのだ、と言う。そんなわけで、私はすべてを美化し、物事を実際にあったとおりにではなく、こうあって欲しかったという自分の思いにしたがって描くのだ、云々。
あのとんでもない『悪童日記』が、美化されたものなんですって。こうあって欲しかった自分なんだって。なんかどうしようもなく切なくなりますね。彼らはどれだけ孤独で、どれだけ絶望していたんでしょう。なんでそこから抜け出せなかったんでしょう。

この三部作は自伝的要素が強いので、どうしてもその方面から読まれ、語られることが多いようですね。著者の様々な記憶や経験が、物語のどこにどのように反映しているのかをあげつらうような。訳者あとがきからしてそんな感じなので、読者も影響されますよね。それに、完結編のタイトルが『第三の嘘』である以上、これが「真相」であると言い切れる「正解」が、読者にはもたらされないので、どうしても興味が著者のほうに行ってしまうのでしょうね。

でもわたしは、小説を読むときは小説の世界に入り込みたいタイプなので、そういう読み方は好きではありません。著者の事情とか背景とかは抜きにして、まずは純粋に小説の楽しさだけを追求したい。まずはね。この三部作は純粋に、小説として面白かったです。自伝的側面については、いつか彼女の自伝を読むときに考えてみたいと思います。
一冊の本は、どんなに悲しい本でも、一つの人生ほど悲しくはあり得ません
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