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■ 文盲 アゴタ・クリストフ
文盲 アゴタ・クリストフ自伝文盲 アゴタ・クリストフ自伝
堀 茂樹

白水社 2006-02-15

表紙に、自伝、と、書いてあり、それはその通りなのだけれど、この本では、彼女の人生の大きな節目になったであろう多くの事が省略されています。たとえば、終戦、結婚や出産、亡命するにいたった経緯、などがまったく描かれていないのです。タイトルどおり、彼女の人生の中の、読む事と書く事、そして物語を作る事に関係する部分だけが、抽出され、まとめられています。だから、とても冷静で淡々とした印象を受けます。それでもその中に、彼女の苦悩や憤り、そして、覚悟や決意がきちんと描かれていて、暗い本なんだけど、爽快な読後感でした。すごい人ですね。

印象的だった文章
今後も永遠にはかり知ることのできないのは、あの(スターリンの)独裁政治が東欧の国々の哲学・芸術・文学に対してどれほど忌まわしい役割を演じたかという事である。東欧の国々に自らのイデオロギーを押しつけることで、ソビエト連邦は東欧の国々の経済発展を妨げただけではない。それらの国々の文化とナショナル・アイデンティティーを窒息させようとしたのだ。(中略)自分の国が他国を不当に支配したことを、彼らは一度でも恥じたことがあるのだろうか。今後、恥じることがあるのだろうか。
| 海外 | 18:01 | - | - |
▲ ペルザー家 虐待の連鎖 リチャード・ペルザー
ペルザー家 虐待の連鎖 (ヴィレッジブックス)ペルザー家 虐待の連鎖 (ヴィレッジブックス)
Richard Pelzer 佐竹 史子

ソニーマガジンズ 2004-10
「Itと呼ばれた子」の著者、デイヴ・ペルザーの弟が語る、もう1つの虐待の物語です。デイヴが虐待されていたころ、母親の見方・手先として、デイヴの虐待に加担していたリチャードは、デイヴが児童福祉局に保護されていなくなった後、デイヴの代わりに、母親の虐待を受ける事になりました。デイヴの件で、母親は自分のしている事が外にばれないよう、デイヴの時より巧妙に陰湿な虐待を繰り返します。その結果、リチャードはデイヴのように救い出されることはありません。また、リチャードは、デイヴに対して自分が行った事に関する罪悪感にも苦しんでいます。

この本は、リチャードが15歳になり、自分はもう子供ではない、と自覚し、今までひたすら怯えてきた母親と対峙しよう、と、決意するところで終わっています。この後、リチャードがどのように成長していったのか、続編が出版されているそうなので、探してみようとうと思います。

それにしても、児童虐待って言うのは、本当に残酷で可哀想で耐えられませんね。
| 海外 | 11:17 | - | - |
▲ 夢からさめて V.C.アンドリュース
夢からさめて (扶桑社ロマンス)夢からさめて (扶桑社ロマンス)
V.C. Andrews 長島 水際
扶桑社 2007-01
赤ん坊の頃に母親に捨てられ、施設で育った孤児、ブルック。ある日突然ブルックは、裕福なトンプソン夫妻に引き取られることになり、生活が激変しました。宮殿のような家で、お姫様のような暮らしを送る事になったブルックは、母親になったパメラに、あらゆる教育をうけることになりました。それは、パメラの娘として、美少女コンテストに出場し優勝するためでした。

しかしブルックには、美少女コンテストより大事なものがありました。彼女は抜群の運動神経を持っており、学校のソフトボール部で活躍する事を、何よりの喜びとしていたのです。パメラとブルックは、たびたびぶつかるようになります。

さらっと読めて、爽やかな気持ちになれる本でした。

アンドリュースの作品だと、「屋根裏部屋の花たち」のシリーズのような衝撃をつい求めてしまって、物足りない気もしてしまったのですが、これはこれでいい本でした。
| 海外 | 11:14 | - | - |
● 第三の嘘 アゴタ・クリストフ
第三の嘘第三の嘘
アゴタ クリストフ Agota Kristof 堀 茂樹

早川書房 1992-06

『悪童日記』『ふたりの証拠』『第三の嘘』のネタバレがあります。

ふたごの少年が戦時中の自分たちの生活を書き残した「大きな帳面」の内容が、シリーズ第1作目の『悪童日記』でした。第2作目の『ふたりの証拠』では、国境を越えなかったほうの少年、リュカが主人公になり、クラウスの存在は周囲の人たちの証言によって否定されます。それだけでなく、書き残された文章は、すべてリュカ(あるいはクラウス)による創作なのではないか、と、におわされて終っています。

そしてこの『第三の嘘』です。時は冷戦終結後。ふたごは50代になっています。ふたごのどちらもが語り手となって「わたし」という一人称で話す上に、過去を回想したり、くりかえし夢を見たりと、ややこしい。ちょっと混乱させられますが、それがこの作品に、どこか幻想的な雰囲気を作り出しています。同じシリーズなのに、『悪童日記』とも『ふたりの証拠』とも違う演出をされた本です。

第1部は『ふたりの証拠』の続きから始まり、語り手は病気になって亡命先から帰ってきたクラウスです。しかしこのクラウスが回想する少年時代は、『悪童日記』とはまったく違います。彼は、ふたごの兄弟がいたという記憶はあるものの、1人病院で育ち、その後「おばあちゃん」と暮らし、「大きな帳面」を書き、亡命しました。そして彼は、それ以降クラウスを名乗りましたが、もともとは、本当の名前はリュカだったのです。

第2部の語り手は、国境の近くの小さな町に残ったほうのふたご、クラウスです。彼は自分の家族が離れ離れになったいきさつを知っており、母親と共にリュカを待って、リュカのいない人生を生きて、詩人になりました。しかし、やっとリュカが会いに来たとき、クラウスはリュカを拒絶するのです。哀しすぎる結末です。

どの部分を誰が書いたのか。どこからどこまでが虚構の世界で、どこからどこまでが現実なのか。本当は誰がどの人生を生きたのか、あるいは生きなかったのか。シリーズ最終巻のタイトルが『第三の嘘』なのですから、すべては確定することがないままです。でもまあ私個人としては、素直に『第三の嘘』を完結編であり謎解き編であるとみなすことにしました。だって、どこまでが本当でどこまでが嘘か、なんて言い出したら、小説なんだから全部嘘に決まってます。それに、シリーズを完結させる本として、『第三の嘘』はすごく面白かった。『悪童日記』も『ふたりの証拠』も、続編を想定して書いたわけではないそうで、あの2作をきちんと連結し、シリーズ全体に整合性を持たせたんですから、『第三の嘘』はすばらしい完結編だと思います。あとづけでこれだけの構成を作れるっていうのは、すごい思考力ですよね。力技!

もちろんつじつまが合っているというだけで喜んでいるのではありません。『悪童日記』は、やはり三部作の中で飛びぬけて魅力的で衝撃的な作品でしたが、三部作の一部になって、魅力が倍増している気がする。1度目は大人のための寓話として、三部作を読んだ後はその一部として、違う種類の感動が味わえる。『悪童日記』が2度おいしいって感じです。

ふたごの悲劇は『悪童日記』以来読者が信じていたように、戦争で始まったものではありませんでした。それは戦争に比べればずっと小さくて平凡な、1つの家族の崩壊という事件から始まったのです。リュカは言います。
私は彼女に、自分が書こうとしているのはほんとうにあった話だ、しかしそんな話はあるところまで進むと、事実であるだけに耐えがたくなってしまう、そこで自分は話に変更を加えざるを得ないのだ、と答える。私は彼女に、私は自分の身の上話を書こうとしているのだが、私にはそれができない。それをするだけの気丈さがない、その話はあまりにも深く私自身を傷つけるのだ、と言う。そんなわけで、私はすべてを美化し、物事を実際にあったとおりにではなく、こうあって欲しかったという自分の思いにしたがって描くのだ、云々。
あのとんでもない『悪童日記』が、美化されたものなんですって。こうあって欲しかった自分なんだって。なんかどうしようもなく切なくなりますね。彼らはどれだけ孤独で、どれだけ絶望していたんでしょう。なんでそこから抜け出せなかったんでしょう。

この三部作は自伝的要素が強いので、どうしてもその方面から読まれ、語られることが多いようですね。著者の様々な記憶や経験が、物語のどこにどのように反映しているのかをあげつらうような。訳者あとがきからしてそんな感じなので、読者も影響されますよね。それに、完結編のタイトルが『第三の嘘』である以上、これが「真相」であると言い切れる「正解」が、読者にはもたらされないので、どうしても興味が著者のほうに行ってしまうのでしょうね。

でもわたしは、小説を読むときは小説の世界に入り込みたいタイプなので、そういう読み方は好きではありません。著者の事情とか背景とかは抜きにして、まずは純粋に小説の楽しさだけを追求したい。まずはね。この三部作は純粋に、小説として面白かったです。自伝的側面については、いつか彼女の自伝を読むときに考えてみたいと思います。
一冊の本は、どんなに悲しい本でも、一つの人生ほど悲しくはあり得ません
| 海外 | 20:49 | - | - |
● ふたりの証拠 アゴタ・クリストフ
ふたりの証拠ふたりの証拠
アゴタ クリストフ 堀 茂樹

早川書房 1991-11

この記事には『悪童日記』のネタバレがあります。

シリーズものの2作目、3部作の真ん中、ということで・・・あんまり期待しないで読みました。1作目の『悪童日記』が、なにせ衝撃的な本だったので、似たようなことをやられても、もう驚かないぞー、なんて、多少、意地の悪い気持ちで手にとりました。

でも、よかった!やられちゃいました〜。そうきたか!って感じです。まぎれもなく続編でありながら、1作目とは違う衝撃を受けました。この作家さん、本当にすごいわ。

この本は『悪童日記』のラストで分かれた「ぼくら」の片割れ、国境を越えず、おばあちゃんの家に戻った、リュカのその後の人生を描いています。戦争は終っても、共産党の独裁政権下で、全体主義体制が成立した事により、様々な自由が奪われ、理不尽な暴力はなくならず、町は活気を失っていきます。クラウスと分かれたリュカは孤独です。誰と知り合っても、誰と暮していても、心を許してはいません。心情描写は、前作と同様に皆無なのですが、読みすすめればすすめるほどに、リュカの孤独感と絶望感が深まっていくのを感じます。

そして、最終章までたどりつくと・・・。ああ、やられた!これ以上のことは書けません。

『悪童日記』のラストシーンについて、この本のあとがきに、こう書いてありました。なるほどー、ってことで、覚え書き。
大人になる過程で訪れる自己同一性の危機、有限の個と他者の関係、戦後ヨーロッパの東西分割などを同時に象徴するような、あっさりと叙述されているだけに却ってリアルな「別離」のシーンだった。
| 海外 | 20:48 | - | - |
● 悪童日記 アゴタ・クリストフ
悪童日記悪童日記
アゴタ クリストフ 堀 茂樹

早川書房 1991-01

面白かった!の一言ですむような本ではないけれど、面白かったと言うしかないでしょう。背景は暗いし、テーマは重いし、エピソードのどれもが後味悪いのに、一気に読まされてしまいました。なんか、すごい衝撃的なものを読んでしまったぞ!私は最近までこの本の存在すら知らなかったのですが、世界的な大ベストセラー小説だそうですね。

第二次世界大戦末期のヨーロッパ。「大きな町」では空襲が続き、主人公である双子の兄弟「ぼくら」は戦禍に追われ、国境近くの「小さな町」に住む祖母に預けられます。祖母は近所の人から「魔女」と呼ばれ、夫を殺したという噂もある恐い人。働き者ではあるけれど、ケチで、不潔で、「ぼくら」に優しくしてはくれません。「ぼくら」は二人だけで、生き抜くために戦うことになります。

「ぼくら」は学校に行けなくなった分、作文の練習を自分たちでしており、それがこの日記になっています。作文には真実のみを記載しなければならない、という厳格なルールがあり、そのためこの物語には、具体的な感情表現がなく、「ぼくら」の一人称であるにもかかわらず、客観的な描写のみですすめられます。

そんな文章であり、子供の作文でもあるので、一章一章が短く、本の厚さの割にエピソードが多く、濃厚です。そして刺激的です。「ぼくら」は、まずは生き抜くために、あるときは自分たちなりの正義感のゆえに、そしてときには、もしかしたら愛情ゆえに、犯罪行為を淡々と重ねます。「ぼくら」は、痛みや悲しみを感じないよう、感覚のある部分が麻痺するように自分たちを鍛練し、それにともなって「ぼくら」の犯罪行為も、子供らしくも人間らしくもない、恐るべきものにエスカレートします。

この物語の背景として描かれている戦争や、それによる人心の荒廃や、ホロコーストや、東ヨーロッパの政情不安の描写がリアルです。訳者による脚注が、さらに歴史的な正確さを感じさせてくれています。このリアリティがなかったら、この物語は単なるエログロ小説にしか見えず、私は受けつけなかったかもしれません。でもこの本は、大量の刺激を提供することで読者に媚びた、ただのエログロエンターテイメントとは、一味も二味も違います。

化け物じみて冷徹で、非情で、残酷なものになっていく「ぼくら」ですが、序盤では、子供らしさや、寂しさをにじませてしまう箇所があり、その部分が印象的でした。たとえばあるとき「ぼくら」は、自己鍛練の一貫として乞食の練習をするのですが、物をくれた人たちのほかに、髪をなでてくれた女性がいました。二人はもらったものは全部捨ててしまうのですが、「髪に受けた愛撫だけは、捨てることができない。」と書きます。切ないな〜。

訳者によるあとがきが、この本の背景についての説明という形式でありながら、物語の多角的な分析にもなっていて、とても良かったです。あれを読むと、私が書くべきことなど、もう何もなし、という気になります。

ただ、ラストの意味がわかんなかったんですけど・・・それって私だけ?どうして「ぼくら」は分かれたの?三部作の続きを読めばわかるのかな?
| 海外 | 12:11 | - | - |
▲ 水曜日のうそ クリスチャン・グルニエ
水曜日のうそ水曜日のうそ
C. グルニエ 河野 万里子

講談社 2006-09

主人公は、15歳のイザベルという少女。近所に住んでいて、毎週水曜日に30分だけ遊びにくる、82歳のコンスタンおじいちゃんの事が大好きです。でも、そのおじいちゃんの息子であるはずのパパは、その30分、いつも苛立っています。おじいちゃんの耳が遠いことに、そして古い思い出話ばかりがくりかえされること、仕事で忙しい自分が、そのために時間をとられること。もちろんパパは、おじいちゃんを嫌いではなく、大事にしなければならない、と考えて努力しています。それでもどうしても、その30分は、ギクシャクしてしまうばかりなのです。

そんなパパに、転勤の話が来ます。場所は、おじいちゃんの家から4時間もかかるリヨン。その転勤でパパは望んでいたポストを手に入れることができるのです。それと同時に、ママに赤ちゃんが生まれることもわかります。今の家では狭すぎるので、一家は引っ越しが必要なのです。イザベルは、ボーイフレンドのジョナタンと離れるのが嫌です。がん患者であるおじいちゃんを置いていくのも嫌です。パパも、ママも、おじいちゃんを置いていかなければならないことには、罪悪感を感じています。かといって、自分の家で死にたいと考えているおじいちゃんが、一緒に来てくれるわけはないし、老人ホームに入ってくれることもなさそうです。

それで一家は、おじいちゃんに嘘をつくことに決めます。おじいちゃんに引っ越しの事を知らせず、水曜日だけ、元の家に帰り、今までどおりの時間を過ごすのです。誰かが誰かを思いやって生まれた、たくさんの優しいうその物語。

とても上品な雰囲気の小説でした。「うそがばれそうで、ドキドキ、ハラハラ」というようなシーンでも、その上品さ、それに、穏やかさや、静かさといった、小説の雰囲気が、なぜか壊れていません。その分、ストーリーの展開のわりに冗長な気もしましたが、やっぱり素敵な本でした。

これ、映画化しないかなあ。そうしたらきっと、メリハリがついて、最後には感動がこみあげる、いい映画になると思う。
| 海外 | 23:29 | - | - |
● きみがくれたぼくの星空 ロレンツォ・リカルツィ
きみがくれたぼくの星空きみがくれたぼくの星空
ロレンツォ・リカルツィ 泉 典子

河出書房新社 2006-06-08

かつては優秀な物理学者だったトンマーゾと、敬虔なキリスト教徒のエレナは、老人ホームで恋に落ちました。偏屈で皮肉っぽく、亡くなった妻カレンと、幼くして亡くなった息子を思い続けるばかりだったトンマーゾ。70歳で「もう人生に何かを期待できる年齢ではない」と引退を決意し、脳血栓で倒れ、身体の自由を失って老人ホームに来てから1年は、口を聞くこともしないほど、生きる気力をなくしていた彼が、80歳を過ぎて恋をしたのです。人生の最後の時期に再び人を愛し、それをきっかけにいきいきした感情と、明日へのささやかな希望と、充実した日々を取り戻します。感動の一冊でした。オススメです。

しかし。だがしかし。解説にね、こう書いてあるんです。
「泣くまいと思っても、この本はぜったいに無理だ。泣かなかったら人間じゃないし、マンモスでも、シラミでもない。」
すいませんね。確かに感動はしたけれど、泣くところまではいかなかった。わたしの感受性、シラミ以下です。
| 海外 | 00:15 | - | - |
■ 黄色い気球 ローリー・ハルツ・アンダーソン
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黄色い気球
ローリー・ハルツ・アンダーソン 赤尾 秀子
ランダムハウス講談社 2005-09-15

by G-Tools , 2006/05/21





1793年。フィラデルフィア。建国したばかりのアメリカ合衆国の首都だったこの街で、黄熱病が大流行し、人口の1割にあたる5千人もの人が、命を落としました。黄熱病が蚊によって媒介されることはわかっておらず、予防法も治療法も知られていなかった頃のことです。

大統領や議員をはじめ、感染を恐れた住民は、次々に街を出て行きました。郵便配達人は来なくなり、新聞は発行されなくなり、市場は開かれなくなり、食料も、物資も不足します。そんなフィラデルフィアに残された、14歳の少女、マティルダのサバイバルストーリーです。

どんなに絶望的な状況に陥ってもくじけず、自らの手で運命を切り開き、弱き者を守り、希望を持ち続ける。フロンティア・スピリッツと、キリスト教的道徳観の組み合わさった、とてもアメリカの児童文学っぽい、アメリカの児童文学、という感じでした。「若草物語」とか、「大草原の小さな家」シリーズとか、子供の頃に読んだ古き良き児童文学の香りがしました。最近描かれた本だというのは、信じられないくらいの懐かしさでした。

これが史実でなかったら、いい子ちゃんすぎるマティルダにも、予定調和のエピソードにも、冷めてしまいそうな気がします。でも、この小説に描かれた黄熱病の流行が、歴史上の事実であるということの重みがあるので、読者は冷めていられません。感動的でした。ああ、おじいちゃん!

YAとして非常に高く評価できる作品だと思います。幅広い年齢層の人にとって、読みごたえのある本です。
| 海外 | 22:30 | - | - |
■ ドゥームズデイ・ブック コニー・ウィリス
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ドゥームズデイ・ブック〈上〉
コニー ウィリス Connie Willis 大森 望
早川書房 2003-03

by G-Tools , 2006/05/18





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ドゥームズデイ・ブック〈下〉
コニー ウィリス Connie Willis 大森 望
早川書房 2003-03

by G-Tools , 2006/05/18





再読。以前、読んだときはハードカバーだったはず。今回、文庫版で読み直したら、大好きな恩田陸さんの解説がついていて、そんなことは知らないで買ったのでラッキーな気分。

ヒューゴー賞・ネビュラ賞・ローカス賞の三大タイトル受賞作ということで、それだけの読み応えはある、面白い本です。タイムトラベル小説ですが、ややこしい設定などはないので、SFファンではない人も、ひとつの物語として楽しめるでしょう。私も堪能しました。いい読書でした。

この本に関しては、たくさんの賛辞がすでに捧げられていることと思いますので、これ以上誉めちぎってもしかたないかな、というわけで、重箱の角をつついてみようかと(笑)

前半を読むのが、けっこうしんどいかもしれません。ストーリー展開が冗長で、なかなか本題に入らない。恐いのはペストだよ、この本はペストの話だよ、と、作者が序盤からけっこうしつこく予告をしているので、読者はずっと「それ」を待ってしまうのですが、「それ」が発覚するのは全体の3分の2あたりまで読み進めてからです。「やっとだよ、もう疲れたよ」って、そんな感じでした。

そこまでの物語、現在でのある疫病の発生とその感染源をたどるすったもんだや、学者同士の醜い争いからくるごたごたが、長い割に、そんなには面白くないんですよね。しかも現在と過去で登場人物が対応するようにできているので、登場人物がやたらに多く、把握するのが大変。もうちょっと上手く、終盤に向けての伏線をはれなかったものかなあ、と、思ってしまいました。

でも、そこまでをしのげば、そこから先の第3部はすごいです。夢中で読みました。ペストがやってきて、愛する人たちが次々に倒れ、なすすべもない中世の人々。最後まで献身的に人々の世話をするローシュ神父。効果的な治療はできないことを知りながら、必死の看病を続ける現代人のキヴリン。

過去の世界は全体として丁寧に描かれていて読み応えがあり、入り込みやすかったです。現在編のコミカルといってもいいくらいの、病気に対する緊張感のなさとの対比で、過去編の絶望感がよりいっそうぐっときます。弔鐘の音が鳴っているのが聞こえるような気がしました。

正直言って、タイムトラベルものとしてはどうという事はない本だと思うのですが、過去編はアウトブレイクものとして、すごい本でした。

そうそう。ダンワージーとキヴリンって、単なる教師と学生の関係なんだよね?ダンワージー先生って、娘か恋人みたいにキヴリンを思っている感じがして、なんとなく違和感があったんだけど、そのあたりはやはり国民性の違いなのでしょうか。
| 海外 | 15:04 | - | - |
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